この本を手に取ったきっかけは何だっただろうか・・・
もうよく覚えてはいない。
たぶん見て見ぬふりをしていながら、何となく感じていた「将来への不安」とか「退屈への恐怖」といったものが、自分でも知らない間に積もりに積もっていたからだと思う。
そしていずれ避けられなくなる「退屈」から逃れたいと感じていたからだと思う。
僕らは大人になって、生きる意味とかそんな青臭いことも考えることもなくなった。
それを成長だと思ってた。
日々仕事や生活に忙殺されて、自分のことで精一杯の毎日。
それでもふと夜中ベッドの中で「人生って何なのだろう」とか考える瞬間ってありませんか?
どうもこんにちは、ポエム大好きおるかです!
この記事は、國分 功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」から考える「現代そして未来の生き方のヒント」の考察です。
寿命が100才になり、人間の仕事はAI(人工知能)やロボットにとって代わられるといわれる時代に、ぼくらはどんな生き方をしていたらハッピーになれるのか?
お暇な人はちょっとお付き合いください。
暇と退屈とシンギュラリティ
「暇と退屈の倫理学」では、「暇と退屈の原理」そして「退屈に対する処方箋」について提示されています。
詳しくは本を読んでいただきたいのですが、自分の感想から言うと「近い将来、AIやロボット化によって人間のする仕事が減ってきた際に、人間はそのあり余る時間(暇)をどう生きるのか?」というテーマについて非常に考えさせられる本でした。
時間の余裕がなくて将来や人生について考える暇もない社会人の人も、時間だけは有り余っていて生きる意味についてばっかり考えている学生さんも、両方の方にぜひ一読していただきたいです。
シンギュラリティとは?
近年、AIやロボットの発展はめざましく、ニュースなどでも話題です。
チェスや囲碁の世界ではもうAIに勝てることはできなくなってきています。
AIが人間の脳を完全に再現する、もしくは人間の能力を超える瞬間(技術的特異点)をシンギュラリティといいます。
そしてシンギュラリティが訪れると、社会や人類の生活のあり方が根底から覆されるといわれています。
そして何とシンギュラリティが訪れる時期は2045年と予測されています。
興味のある方は、未来学者レイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき」をご覧ください。
シンギュラリティが訪れて変わることの一つは、人間がやる仕事が減るということ。
つまり「人間は暇になる」ということです。
個人的にこの”暇”というのは相当厄介だと思っています。
そうなると必然的に暇や退屈とどう向き合うかは、これからの時代の大きな課題になってくると思うのです。
退屈に悩んだことがない人には理解のできない話が続きます。毎日クソ忙しくて暇なんてねえよ!という方にはイラっとさせてしまうかもしれませんm(_ _)m
ワークライフバランスは本当に僕らを幸せにするのか?
さて少し話は変わりますが、近年ワークライフバランスという言葉が流行しています。
仕事とプライベートの充実、生産性の向上が叫ばれ、政府・各企業が残業の削減などに取り組んでいます。
このワークライフバランスという言葉を聞いた時に一番初めに思ったこと。それは実は、
「余暇=つまり暇が増えたらどうしよう・・・」という不安でした。
(根っからのブラック体質・・・)
これは冗談ではなく、ぼくにとっては結構深刻な問題で、そんなこともあり本書(暇と退屈の倫理学)を手に取った理由の一つだったかもしれません。
余暇ってみんな本当に望んでいるの?人生とは死ぬまでの暇つぶし??
ところで、ぼくは中学から高校時代、ずっと日記をつけていました。
内容はとりとめのないもので、日常の感情や思いを書き留めたもの。まあ、恥ずかしいポエム的なものもあったはず。いやむしろ、ポエムだらけだったはずです。
実家を出るのを機に全て処分してしまったので、内容を確かめられないのが残念ですが・・・
「刺激が欲しい!」「つまんない」「暇なわけじゃないのに何となく退屈だ!」と言う思いを書きなぐっていた覚えがあります。
つまり明らかに「退屈」に悩まされていたのです。
本書で言えば「何をしてもいいのに、何もすることがない」「だから、没頭したい、打ち込みたい・・・」という感じです。
「人生は死ぬまでの暇つぶし」だという名言もあります。みうらじゅんさんや松本大洋の漫画「ピンポン」にも登場します。
反論もあると思いますが、かつて哲学者のパスカルも「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる」「人生に意味がないという事実を忘れるために常に何かをして気をまぎらわせること」と言いました。つまり人生は気晴らし(divertissement)だと。
現代人特有の贅沢な悩みですが、どうやら人類が狩猟から稲作定住文化に移行してからの根深い問題のようです。
そして大学生となり、遊びも覚え、遊び尽くすまでは新鮮で、麻雀、競馬、バイト、スロット、クラブ通い、旅行と一通り遊んでいる内に4年間が終わっていました。
飽きないようにするために数ヶ月毎に遊びを変えてました。
そのかいもあって(?)退屈を感じることなく大学生活は過ぎていきました。
そして社会人になると、一転して仕事漬けの毎日。
退屈のことなど考える暇もなくすぎる日々。
仕事もそれなりに好きで没頭していたので、何の不満もなく、同じ意識を持った人が多い職場で学園祭のような毎日。
今思えば、退屈から逃げるために、あるいは思考停止して考えなくするために、あえてそういう職場に飛び込んだ気がします。
その当時の話はこちらの記事をご覧ください。
本書で言えば、暇と退屈の「第一の形式」にとらわれていた奴隷のようだとも言えます。
とにかく仕事して寝るだけの日々だったので、ふと何となく退屈だ・・・と考える余裕もなかった。
そして小さい頃から、何をしててもふわっとした退屈感に悩まされていた自分にとっては、その生活を不満に思うこともなく、肯定的に捉えていました。
突然のワークライフバランスという恐怖
それがですよ!突然に降ってわいたように現れた「ワークライフバランス」という言葉。
そして今や右も左もワークライフバランス。残業も休日出勤もなくなりました。
普通なら喜ぶところ何でしょうけどね。今でもブラック企業や過重労働で悩まされている人も思うので、大変失礼な話ですが、実はしばらくの間マジで悩みました。
中高生時代の鬱屈とした退屈感から逃れるために、仕事漬けの日々を送ってきたのに・・・それが覆されるとはっ!
本書の裏表紙にあるウィリアム・モリスの言葉と同じでした。
その言葉とは
「19世紀イギリスに「革命が起こってしまったらその後どうしよう」と考えた人がいた。」
これにはすごく共感しました。
かつてヨーロッパで起こった市民革命。封建国家を解体して市民社会を目指す「市民」が主体となって推し進めた革命のことです。
革命が起こってしまったらその後どうしよう、と考えた人はきっとこう思ったのだと思います。
革命という目的に向かっている最中は、やることが明確でモチベーションが高い。みんな燃えている。でもそれを達成してしまったら、その後にはもうやることがなくなってしまうのではないか・・・
という心理。燃え尽き症候群みたいなものですかね。
自分にとってワーカホリック状態は、まさに革命の渦中。それが終わったら、何とやることがない!のです。
そこには興奮もなく、没頭することもない時間=余暇が待っているのです。
そんな悩みは老後まで待っていればいいとタカをくくっていたのに。
それがなんと、今そこにある危機状態に。。。
暇と退屈をいかにして乗り越えるか?
この大問題については今、だいぶ乗り越えつつあります。
ではどのようにして乗り越えたかというと、、、
それは意外とあっさりした答えで
もういい歳した大人なので、ズバリ趣味を持ちました。
元々本は好きなので、読書の時間を増やしたり、運動や自転車を買って趣味仲間を作って休日を楽しんだり、アイドルのライブに行ったり・・・
何とか、でも、あっさり解決^^
ではなぜあっさり解決できたか?
自分なりに考えてみました。
本書の結論にもあるのですが、「浪費せよ、贅沢を取り戻せ、でもそれには楽しむための訓練が必要」だとあります。
ただ趣味を持っただけでは、何となく退屈だという観念を拭いさることはできません。
ただ自分の場合、ラッキーなことに大学の4年間で楽しむ訓練をしていたことが役立ちました。
生産性のないことをする、その楽しさ。意味がないことに意味づけをする愉快さ。
楽しいと自然と思えるから楽しめるのではくて、楽しみ方を知っているから楽しめるという事実。
10代の自分だったら納得のいかない論理だったと思いますが、今では腑に落ちます。
そして実際にその通りになりました。
わーい!
つまり遊べ!ってことです。
まとめ:感想
本書を読んでいる間も、あれこれ考えること自体がとても楽しかったです。
そしてこの感想を書いている今も、まさに楽しめており、それだけでも大いに読む価値があったと感じています。
そして特に何かを得ようということでもなく結論を出すということでもなく「今この瞬間を楽しんでるな」ということそのものが意義のあることだと気付かされました。
これからまたいつ、何となく退屈だという気持ちが襲ってくることはあるかもしれません。
ワークライフバランスの先には、AI人工知能や機械化やら何やらにより、人間が仕事をしなくてもいい時代(少なくとも今よりは余暇が大幅に増える時代)がきます。
また寿命が100才になる時代がくるとも言われています。
関連記事>>>「寿命100年時代に絶望を感じた貴方へ|ライフシフトとは?要約をまとめてみた」
その時に人を最も悩ませるのは、「暇と退屈」だと思うのです。
本格的にシンギュラリティが訪れた時、また本書を改めて読み返してみたいと思います。
ということで、今回言いたいことは
哲学を考えるのも意外とムダじゃない!ってこと!
ではまた。
「読み進めるうちに、あぁ、こんなところに生きる意味があったのかと、一度人生をリセットしたような、そういう気分にさせてくれる本です。震災以降の現在ならなおさらです。[…]ありとあらゆる意味や関係にこんがらがってるであろう現実を一旦均してしまうような、まさにリセットするような実に晴々として爽快な内容」
――鈴木成一氏(マトグロッソ「鈴木成一 装丁を語る。」#36より)
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